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取材レポート

2025/10/28 (火) 12:00

友達1000人の少年が風俗王になるまで。風俗業界オーサーが語る波瀾万丈の人生

友達1000人の少年が風俗王になるまで。風俗業界オーサーが語る波瀾万丈の人生

『ウルトラグループ』創業者インタビュー【前半】

 全国的な知名度を誇る風俗グループ『ウルトラグループ』。創業者であり会長の淺奥さんに、幼少期から31歳で業界入りするまで、そして現在につながる転機を聞きました。
「どの時代も、ずっと困っている人におせっかいしてきた」——そんな半生を前後編でお届けします。
後半ではヘブンネット会員からの質問にも回答していただきました。

[東京]ウルトラグループ会長
淺奥さん(64歳)

新宿・歌舞伎町/デリヘル

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松山での子ども時代。友達1000人・喧嘩では調整役

 JH編集部: 愛媛県の松山市ご出身ということで。事前アンケートで『幼少期は霊に憑依されていたけど、明るさだけは保っていた』とありました。どういうことがあったんですか?

淺奥さん: 寝ぼけて外を走り回っていたんです。記憶もあるんです。何かから逃げているというか、動揺して走り回った。焦って外を走り回って。それがたまにあった。後に漫画でそれが憑依現象だと知って。ただ、そんなね、深刻な感じではない。

JH編集部: 小さい頃から結構ヤンチャだったんですか?

淺奥さん:ヤンチャはヤンチャですけどね。僕は、引っ越しと転校が多かったんで、常に転校生でした。

JH編集部:転校のたびに、1からの人間関係とかって大変じゃなかったんですか?

淺奥さん: 大変ですよね。でも子供の時ってどれが大変で、どれが大変じゃないかわからないじゃないですか?今は平均の基準が自分の中にあるんで、当時は大変だったな、と思えたり、あの経験があったから、初めての人と上手く仲良くなれるんだろうな、と。

JH編集部:中学校の時はどうでしたか?

淺奥さん:中学校自体は大して荒れてないです。そんなクローズみたいな感じじゃない。僕たちの時はどっちかというと硬派な感じ。役割的に番長というか、今もそうですけど、なんか知らないうちに矢面(やおもて)に立っている。

喧嘩とかはどっちかというと、今と同じくらい(笑)。どっちかというと止める側というか、調整役。野球もキャッチャーでした。
いろいろな学校同士の戦いになるじゃないですか?僕は転校・転校で、学校の悪い奴を大体知っていた。僕は友達1,000人みたいな感じだった。誰かに話をつけてくる、そういうのをいつも頼まれていました。

JH編集部: 子どもの頃の印象的な出来事はなんですか?

淺奥さん: 子どもの頃は本当に地獄でしたからね。うちの親が離婚・結婚・離婚・結婚みたいになっちゃって。子どもが親同士の喧嘩を見ているのは結構嫌じゃないですか?

よくお母さんが親父の愚痴を言いながら、泣いているみたいな。そういうような思い出しかないです。小学校も転校を繰り返して、知らないお父さんみたいなのがしょっちゅう変わっていました。

JH編集部: 当時は大人に付いていくしかないですよね。

淺奥さん:そうですよね。友達が多かったのでその時は寂しいが何なのかも分かってなかった。 今考えたらまぁまぁあれだなと思うけど、その頃は深く考えてはいない。世の中を知って初めて『平均はこんな感じなのに、比べたらちょっと貧乏だな』とかあるじゃないですか。

JH編集部: その時はそこが全て、ですね?

淺奥さん: そうなんですよね。色々経験がないですからね。人生経験が。

最初の仕事は皿洗い。何に向いているかも分からない時代

 JH編集部: 最初に選んだ進路は『先輩から紹介された皿洗い』 いつ頃ですか?

淺奥さん: 中学を卒業してすぐですね。洋食レストランみたいな感じでした。東京に出てくる前に仕事したのが、合計半年も無いと思うんです。
皿洗いは1ヶ月くらいで、あとはオートバイ屋、それと、松山のスナックの厨房。

JH編集部: 続かなかった理由は何でしたか?

淺奥さん: 起きられなくなったからですね。起きられないから中学校もほとんど行かなかったんですよ。なぜだったのか?今、めちゃめちゃ起きられるのに(笑)

原因が夜遊びとかじゃないんです。ただ目が冴えて夜眠れない。朝方になって眠くなって明日こそ学校行こうと思うけど、もう全然起きられなくて昼。それを毎日繰り返す。
そうしていると勉強も面白くなくなるじゃないですか。

僕最初は生徒会書記次長だったの。選挙に立候補して。立候補って言っても、ジョークみたいな感じでね(笑)仲間が多かったので。

JH編集部: 生徒会でしたか!皿洗いのアルバイトで覚えていることはありますか?

淺奥さん: 地獄でしたね。お皿を洗うのも地獄だし、朝起きるのも地獄でした。とんでもなくつまんない仕事だなと思います。仕事っていうのがそもそも嫌いですからね。何が自分に向いているのか?そういうのも分かんないじゃないですか。

JH編集部: 小学校の時に将来の夢はありましたか?

淺奥さん: マジで全く思いつかない。何が自分に向いているのかわからない。学校で将来何になりたいか聞かれても答えられなかった。

JH編集部: お金や仕事を意識し始めた時はありますか?

淺奥さん: まぁ最近は思いますよ、はははは(笑)。昔はあんまりなかったんですよね。この商売に出会ったのが初めて俺のためにあるなと思った感じでした。それが31の時ですね。

人生の転機。自分のことしか考えない人達を見て「やばい」と悟る。

 JH編集部: 31歳まではいろいろ転々とされていたんですか?

淺奥さん: そうですね。10代から23歳までは役立たず(笑)。23歳までアウトサイダーだったので。 困っている人に同情して、おせっかいして。でも、まともに給与をもらえる仕事じゃなかった。
それまでも合計3ヶ月くらいしか働いていないから。23歳でちゃんと働かないといけないと思って。

JH編集部:そう考えたきっかけは何でしたか?

淺奥さん: 21歳の時の経験が大きかったと思います。18歳~70代までの人と毎日話す機会があって。僕が話好きなのでいろんな人と話すじゃないですか。「こういう考えだと将来こうなる」「こういう感じだとああいう人生になる」が年代ごとに分かった。それでやべぇな、これと思って。はっはっは。
やっぱりね、自分だけ見て、自分のことしか考えてない感じだと、こういう風になるんだなと学びました。

JH編集部:21にして悟ったんですね。

淺奥さん:はい、そうです。あれが、結構人生の転機の一つでもありました。
それで23歳で東京に行きました。誰の助けも借りずに働かないとまずいな、と。そこから31歳までがジプシーでした。

スポーツ新聞の宣伝広告を見て風俗業界へ。3日目で天職だと感じる。

JH編集部: 風俗業界に最初に関わったのが31歳。これはどんな形で入ったんですか?

淺奥さん: 最初はメンズエステのスタッフです。今のメンズエステとちょっと違います。

JH編集部: ご自身で選んだんですか?紹介ですか?

淺奥さん: 自分でスポーツ新聞のお店の宣伝広告を見て電話して、「すみません、そこ募集してます?」って聞いたんです。お店は『何でこの電話で?でもまぁいいや、来て』って。
前日に従業員が売上を持って逃げたらしく、困ってる時にちょうど電話していたんです。

JH編集部:初日、驚いたことは?

淺奥さん: まず勤務初日にお店に行ったら、社長がいない。出勤した女の子達が入り口にいて、『社長来ないから鍵が開かない』って。すげえ適当だなって思ったわけですよ。

あと、ピンク色のA4ぐらいの大きな蛍光ピンクのビラを、渋谷の道玄坂からハチ公まで貼る仕事があった。(現在はピンクビラの貼付・配布は違法だが当時の規制はなし)昼も夜も。こんなところを誰かに見られたら嫌だなって(笑)。とうとうこんな事までするようになったのかって思われるじゃないですか(笑)。

さらに、ハチ公前でピンクのチラシを100枚配れと言われて。もうバックレて帰ろうと思って駅の改札に向かったら、偶然、角から先輩スタッフがパッと出てきた。『今からご飯に行こうよ』って。あそこで先輩に出会ってなかったら、俺もう帰っていました。
そこから働いて3日目で『これ天職だ』と思ったんですよ。

JH編集部: 天職だと思われた理由は何ですか?

淺奥さん: 得意なポイントがいくつもあったからですね。警察は知らないわけじゃない。そして僕は女性に不自由したことがなかった。
もうなんでこんな簡単な仕事があったんだ!と思いました。3日目でみんなが悩むことは全部解決できた。だから天職だと思ったんですね。

JH編集部: 収入面はどうでしたか?

淺奥さん: 最初は月35万円くらいだった。蒲田の時はね、年収1000万ぐらいもらっていました。25年くらい前です。
業績が上がって、蒲田のお店がとても流行ったんですよ。僕が行った月から一回も赤字にしたことがない。2部屋から最終的に10数部屋になって。
それもオーナーからの手出しは一切無しですから。儲かったお金で店舗拡大していって、ひと月で1,800万円ぐらい残っていましたから。

JH編集部: 何年そのグループにいたんですか?

淺奥さん: 6年です。だけど、オーナーが現場の様子を過度に確かめるようなことをしていましてね。オーナーに「あなたに恩があるからみんな働いている。だけど、そういうことをやると、みんな心が離れますよ。」って言った。やがて「辞めてくれ」みたいになって。結局僕が辞めたら、みんな辞めちゃいましたよ。

独立オープン。2,500万円の自己資金がどんどん減っていく恐怖

 JH編集部: そこから何をされたんですか?

淺奥さん:学園系のデリヘルを高田馬場で立ち上げました。それが起業した1店舗目です。
デリヘルだとなんだかんだ手間かかるんで、メンズエステにしちゃえって。
店舗型しかやってこなかったからデリヘルのノウハウがないじゃないですか?そんな中、スタッフに店を任せていたので結構うまくいかなくて。2500万円の自己資金で始めたんですけど、それがどんどん減っていって最終70万ぐらいまでになりました。

JH編集部: 焦りはありましたか?

淺奥さん: ありますよね。透明の筒の中で動けないところに、頭の上の蛇口から水がポトンポトンと落ちてくる。1000万切ると首の上ですよね。プレッシャーで息もしづらい感じで。その時、ちょうど2人目の子どもが生まれたばっかりでした。

求人誌での反響が社会現象に。お昼の情報番組に出演

 JH編集部: 独立1店舗目はどのくらいの規模でスタートしましたか?

淺奧さん: スタッフは何人ぐらいだろう?3~4人いましたからね。キャストは在籍20名くらいで、出勤は5、6名でしたね。

JH編集部: キャストさんはどのように集めたんですか?

淺奧さん: 雑誌で求人募集していました。て●●くるとか、懐かしいでしょう?ちょうどて●●くる創刊の年に僕は風俗を始めました。だからメンズエステのレベルが凄い良かったんですよ。
それまではね、新聞の3行広告みたいなので女の子募集したり、営業広告にコンパニオン募集って入っていた感じだったのが、て●●くるで一般の大学生がたくさん来るようになって。それで民放キー局のテレビに出ましたよ。昼12時からの情報番組に。

JH編集部: それはどういう特集での出演だったんですか?

淺奥さん:4年制の女子大生が卒業して風俗で働く、というのが当時は本当に驚きだったみたいで。バブルも崩壊した後でだいぶ社会問題になって、それでどんな感じですか?というので出演。ハハハハハ。撮影クルーが凄くてちょっと緊張しましたよ。


インタビューは後半に続きます。

オーサーが回答!ヘブンネット会員からの質問[前半]

 ヘブンネット会員からオーサーへの質問を募集しました。淺奥さんにお答えいただきます。

Q:『何歳まで社員を採用するのか?』

淺奥さん: ウルトラグループは60歳ですね。僕は64歳なので、僕より年下だったらいいかなと思って採用しています。

Q:『男性社員は誰でも採用するのか?』 誰でも採用ではないですよね?

淺奥さん:そうですね。自分を変えるつもりがある人だったら、どんな方でも。自分を変えたい、成功したいという気持ちがあれば。成功は絶対できるんですよ。言う通りにやっていただければ。

Q: 『どうすれば風俗店の経営者になれますか?また、開業資金はどれくらい必要ですか?』

淺奥さん: それはね、難しいと思うんですよ。コストが高いですから。それにね、チェーン店じゃないと今立ち上がらないじゃないですか?1000万円くらいの規模のお店なら、可能かもしれませんが。

Q: 『風俗店を経営するにあたって、やってはいけない鉄の掟のようなものは存在するのでしょうか?』

淺奥さん: 裏切りじゃないですか、やっぱり。風俗店に関わらずです。裏切りがあると衰退して無くなります。それはどの業界も常にそうですよね。
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インタビュー後半は後日配信されますのでお楽しみに!

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